じいちゃんが死んだ。

10月25日、金光のじいちゃんが亡くなった。あまりにも急なことだった。
10月頭に軽い脳梗塞で入院してから会いに行けていなかったので、やっと日程を決めて会いに行ったら、翌日の朝亡くなった。
じいちゃんが入院した時点でかなりショックは大きかった。じいちゃんといえば、金光に帰れば「ま〜いちゃん、よう帰ってきたね」と迎えてくれて、帰るときはいつも名残惜しそうにしてくれた。私がずっと一人暮らしで働いていることも、まいはひとりでようがんばっとる、とばあちゃんに話していて、応援してくれていたみたいだ。
私のこと大事に思ってくれて、かわいがってくれて、受け止めてくれる人が一人いなくなったのだと思ったらものすごく悲しい。こんな自分中心の考えで申し訳ないが、真っ先に頭に浮かんだのはそのことだった。

通夜、葬式と、悲しむ間もなく忙しく、親戚への気遣いで神経がすり減らされた。
私がお見舞いに行った日、じいちゃんははっきりと目を開けて、こちらの話すことにも反応していて、入院して以来初めてぐらいの勢いで、意識がしっかりとしていた。私に会うまで待ってくれていたのかもしれない。
じいちゃんの妹が、「ろうそくは消える前に一瞬ものすごい勢いで燃える。それと同じで、死ぬ直前のじいちゃんは生命力が強くなっていたんじゃないかな。」というような話をしていて、まさにそのとおりだと思った。

亡くなったじいちゃんの遺体を見たり、じいちゃんが亡くなったことに対する周りの反応を見て、こうやって人は亡くなっていくんだなということに直面して、死ぬということや人生のゴールについてしみじみと考えてしまった。じいちゃんは死ぬときに、どんなふうに今までの人生を振り返ったんだろう。振り返って、何を思ったんだろうか。悔いはないと思えたのか、生きてきてよかったと思ったのか、じいちゃんの人生を間近で見てきた訳ではないので分からない。

そして自分の人生のゴールについても考えた。ああやって人生の幕を閉じていくなら、今閉じるのと何のちがいがあるのだろうか。しばらく「死」の近くにいすぎたせいか、人生の終わりを見てしまったせいか、なんだか毎日が灰色になってしまった。灰色の毎日。やることなすことすべてに色がなく、意味も感じられない。何かをしたいという、わくわくするような意欲もない。何かに感動できる心の隙間もない。日常に追い立てられて、息をつく間もなく必死で仕事をして、毎日が過ぎていく。
心に潤いを与える余裕もなく、毎日をやりすごすだけで精一杯だ。

とにかく、この心の状態については何か記録を残して整理しておきたかったので、書いておく。