ブログつくってみました

考えることとまじめに向き合っていなかったのでここに日記としていろいろ書いてみる。
影響されやすいのでただまねっこで始めただけなんだけれど。
いつまでやる気がつづくのやら。
気まぐれ…というか、ただ飽きっぽいから。
もともと文章を書くのはすきだ。
中学生ぐらいのときちょろっと小説を書いたりなんかもしたが、今では全く書いていない。でも思い出せば小説書くのって大変だけどなんだかたのしかった。書いているとどうしても自分の理想というか、こんなふうだったらいいのにっていうようなことしか書けなくて、いつも内容の軽いファンタジーになってしまったが。それに文章力と描写力がなさすぎて頭にぼんやり浮かんでいるイメージを明確に文章にできず、いざ書いてみるとどうしても安っぽくなってしまうことがたまらなく嫌だった。そこで文章力を上げるためにトレーニングをしたというわけでもないし、練習せずにそんなことが上手くできるはずがない。かたい読み物も全然読んでいない。読まないと、と思いつつ漱石先生の「こころ」あたりで挫折している。
ところで先日教育論の講義である小学校のビデオを観たのだが、その小学生たちのきらきらしている感じがうらやましくて仕方なかった。そしておとなとこどもについてぐっと深く考えてしまった。最近、おとなになることの良さがまったくわからない。おとなになったら何がいいのだろう、お金を自分の思ったように使えること?自分の意思だけで行動できること?学校にいかなくていいこと?そもそもおとなって何なのだ。・・・おっと、これじゃまるで道徳の授業だ。
中学高校時代は学校なんて大きらいで時間通りに行動することとか、びくびくしながら体育の授業を受けることとか、集団行動とか、修学旅行とか、友達とべったりなところとか、拷問みたいな退屈な授業とか、体育祭とか、まわりの女の子にあわせなきゃいけないこととか、ぜんぶくそくらえだと思っていた。もちろん今でもそう思っている。実際学校に通っているときは本気でしんどいけれど、学校はある意味訓練というか、いやなところでもがまんする練習のための場所なのか。たのしいことも笑ったこともたくさんあるし魅力的な先生もいたはずなのに学校には拒絶反応が出る。まあ、うちの学校こんなだったんだよ!っていうのはある種話のネタとして必要だろう。
「おとなとこども」に話はもどるが、近ごろこども(小学生ぐらい)だった自分が今と比べてすばらしかったように思えてならない。小学生のときのほうが想像力も豊かだし(単純にサンタさんを信じていたとかそういうことを含め)、素直でよく話しよく笑っていたし何事にも全力で取り組んでいたし。しかしこれってただいやなことを忘れてしまっただけなのか。おとなになるほどこどものときが鮮明にリアルによみがえるのか。それが強く強くなって、おとなはこどもがでてくるお話なんかを書いてしまうのだろうか。
よくよく考えてみると、おとなもこどももどっこいどっこいかもしれない。こどものとき見ている世界はふしぎでリアルでなまめかしくてぴったり身体によりそっていて現実の出来事や物語のできごとを全身全霊でうけとめている。でも大きくなると世界は少しかわいて遠ざかるけれど、そのぶん一歩離れたところから広い範囲をながめることができる。つまりはこれが現実的になる、ということか。芸術家は時にこどものときのような世界にどっぷりつかってそこから見えるもの感じるものを表現しなくてはならないのだろう。そしてそれはきっとこどもの自分が見たときより一度おとなになってから戻ってみたときのほうが、深くかがやいているにちがいない。私が表現者として何かを表現したいのだとすればそういうものかもしれない。すきだと思うものにもどこかそういう部分があるのだろう。
このことは一度ばなちゃんに質問してみよう。こたえてもらえるか分からないけれど一応ね。
そういえば今日は流れ星が見られるみたいだけどここは夜も明るいからなにも見えないな。だれかと流れ星見にいったりしたいよー。家族でもいい。あったかい飲み物買ってって真っ暗な山までドライブ、とかね。ホタルを見に行くとか十五夜に満月を見に行くとかお祭りに行くとか、ああいうたぐいのわくわくする感じは何にも変えがたい。夜で暗いってところがポイントだね。
しかしこの日記だれが読むのだ…。mixiにURLとか貼らないかぎり誰も読まなさそうだ。ぜひ読んでほしいひとはいるが、しばらくはこのままでいいか。