久しぶりに。

最近考えることがいっぱいで、とても整理しきれないのでブログ復活。

私の対人関係におけるメンタルの弱さは中学生ぐらいから変わってない。たぶん、もめるのがいやで傷つく経験をしてこなかったからだと思う。家族に甘やかされ、絶対的に守られてきたせいでもあると思う。
周りからしてみれば、「そんなの気にすることないのに。ほっとけばいいのに。」と思われるようなことを気にして落ち込む。人間関係で悩むことに慣れていないから、その落ち込みを覆い隠せる空元気を装う強さも持っていない。
あと、私はよく中立的な立場に立たされることが多いのだけれど、それって要するにただ八方美人なだけなんじゃないかと気づいた。誰からも嫌われたくないから、話をする人によってころころ態度や発言を変える。誰かと敵対するのがこわくて、自分の意見を貫き通せない。さらには周りの影響を受けやすいので他人の意見に染まりやすく、自分自身の考え方も変わりやすい。
だから周りに流されない人をみると、強いなと思う。たとえその意見に反対する人がいたとしても怖がらない。しかも強がって無理にそうしているのではなく、無意識にやっている。つまりそういう人たちは自分の行動が他人からどう思われようと関係ないんだな。私の根本的な問題はそこだ。他人からどう思われているかが常に気になる。これって昔からだったのかな。それとも何かきっかけがあったんだっけ。自分で自分に自信がもてないこととつながるんだろうか。うーーん。

それと最近気になるのは、他人への依存性。世界が広がって、気のあう人たちと出会うようになると、その人たちとの別れがつらくなる。これは完全に私のエゴだと思うけれど、すきな人たちに対して、絶対私の方が一緒にいて楽しいと思ったり、離れているのがさみしいと思ったりする分量が多いと考えてしまう。これってつまりは他人に依存してるってことで、あまりよろしくない。自分に足りないものを他人に求めているということだ。人はみんな孤独だから、自分に課せられた試練は独りで乗り越えるしかないし、自分に足りないものは自分で補うしかない。私の場合、自己愛を他人に求めているのかも。自分で認めてあげられないから、周りが私のことを考えてくれている分量でそれを補おうとしている。でもばななさんも言っているけど、依存するのって本当にかっこわるい。だからなるべくしたくないんだけど、気に入った人たちと出会う度、依存度が高まっていく気がする。依存するのと愛情深いのって、なんか紙一重な気がするなあ。

ダンスに関しても、大学生ライフに関しても、これが最後!っていうことばかりでひたすらさみしい。楽しむよりも先にかなしくて、こんなに悲しい思いをするなら楽しい思い出をつくることなんて何の意味もないよ、と思う。楽しい思い出はこれから生きていく上できっと、思い出して救われることがあって役に立つだろうけど、今はそれが過ぎ去っていくのがただかなしい。これも高校までこういう経験をしてこなかったせいで免疫がなくて戸惑う。
大学生活を通して、私の人生や考え方に大きな影響を与えた出会いがいくつかあったけれど、私にとってはその人たちの存在が一生消えないほど大きくても、相手にとって私は人生の通過点のひとつに過ぎず、忘れ去られていくものなのだと思うとまた悲しくなる。ここで別れたら(大げさだけど)もう会うこともないだろうし、ずっとそばで定期的に会ってしゃべったりするのと、遠く離れているのでは全然ちがう。
時間が過ぎて、物事が移り変わっていくのは当たり前なんだけれど、今は、過ぎ去っていくものたちがあまりにきらきらしているから、それらを失うのがとても惜しい。正確には失うわけではなく、日常的に見られなくなるだけなんだけど、考えれば考えるほどさみしいな。このことをふいに考え始めたときは、なんかもういろいろとやるせなくて泣いた。

この全体的にしんみりした気持ちをママに相談したら、精一杯今を楽しみなさいと言われたので、押し寄せてくる寂しさに負けずにそうしようと思う。
書いたらちょっとすっきりした。